万里の長城 〜中国〜 世界遺産特集です!
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万里の長城〜中国〜 世界遺産特集です!

万里の長城って?

万里の長城はとても有名であり、世界遺産に登録されていることは勿論ですが、その規模は世界最大で、月から見える唯一の建造物であるとさえ言われていました。(あくまでもこれはたとえ話で、実際にはそんなことはあり得ません)。
 

万里の長城の歴史その1

古代中国では、外敵や異民族の侵入から国を防御するために「長城」と呼ばれる防御壁が諸国によって作られました。この起源は春秋戦国時代(紀元前7世紀頃)にさかのぼりますが、これら諸国によって別個に作られた長城が秦の始皇帝によって、統一整備され「万里の長城」となりました。また、現存する万里の長城のほとんどはさらに時代を下って明代(17世紀)に築かれたものです。一般にいわれる万里の長城は明代に構築された現存する部分で、渤海湾を望む山海関から甘粛省西部の嘉峪関にいたる約3,000kmのことをいいます。
万里の長城はその規模、構築に要した時間など、世界史上最大規模の建築物です。明代に構築された万里の長城からは、当時の設計技術の高さをうかがうことができます。万里の長城の主要部分は敵の侵入を防御するための高大な城壁であり、要所要所には関所、敵台(兵隊の駐屯地、武器貯蔵庫)、のろし台が配置されています。万里の長城は敵の侵入に備えて、領土の防御、通信拠点としての役割を持っていたのです。
万里の長城は長い年月に渡って構築された遺構であり、初期に構築された部分はほとんど風化してしまい、明代構築の一部でも、材料調達の都合上、粗末な材料で造られた部分は風化が進んでいます。万里の長城は1961年には中国政府により国家重点文物保護単位に指定され、八達嶺、山海関、嘉峪関を中心に重点的に修復が進められています。また、万里の長城は1987年に世界遺産として登録されました。

万里の長城の歴史その2

万里の長城を作ったのは一般に秦の始皇帝だと認識されていますが、いわゆる「万里の長城」は明代に作られたものです。戦国時代から趙などは北の異民族に備えるために長城を建設していました。また北に備えるだけではなく戦国七雄の国境間にも長城が作られたのです。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて「万里の長城」としました。この時の長城は土製であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、それほど高い城壁ではなかったといわれています。また現在の万里の長城よりかなり北に位置し、その東端は朝鮮半島に及びました。
前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張したので、万里の長城は西の玉門関まで拡張されました。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく万里の長城を築きました。
五代十国時代の936年に万里の長城の重要な防御拠点である燕雲十六州を後晋が遼に割譲し、これにより万里の長城による北方民族の防御は困難になりました。そのため、その後の北方民族・契丹の建国した遼、女真の建国した金、モンゴル人の建国したモンゴル帝国は、難なく万里の長城を越えて侵入し、中国(華北)は3世紀もの間、北方民族の勢力下に置かれました。南方から興った中国人の王朝である明がモンゴル人の王朝である元を北方の草原へ追放すると、元の再来に備えるために明は万里の長城を強化し、ようやく現在の形になったのです。よく万里の長城は「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、実際は草原の中に建っている。これは元の時代に北方の草原と南方の農耕を一体とした社会・経済が成立し、明も自国内で実現しようと北方への勢力拡大を行なっていたからなのです。そのため、北方民族も南方の農耕民族の物産を必要としており、長城沿いに交易所がいくつも設けられました。ただし、交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もありました。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は万里の長城を越えて侵入を繰り返したのです。
明末に満洲(女真)が勃興し後金を建国すると、明との間で長城の東端を巡り死闘が繰り返されました。後金は明に対して有利に戦いを進めましたが、名将袁崇煥に阻まれ万里の長城の東端の山海関を抜くことができませんでした。しかし、袁崇煥は後金の謀略にかかった明の崇禎帝に誅殺されました。その後明は李自成に滅ぼされ、後金から改名していた清は明の遺臣の呉三桂の手引きにより山海関を越え、「清」の中国支配が始まったのです。

万里の長城を地理的に見る

地理(周辺状況) 一般にいう万里の長城とは、明代に構築され、現存する約3,000kmの部分を多くは指します。これは、万里の長城が東は渤海湾を望む山海関に始まり、中国の北方を西に向かい、北京市、河北省、山西省大同の北方の内モンゴル自治区との省境を走って黄河を渡り、陝西省の北端を横断して再度黄河を越え、寧夏回族自治区の北端を横断して、甘粛省北部嘉峪関に至る区間です。ただ、この現存する部分の他にも、中国の北部の16の省・市・自治区にまたがって長城の遺構が発見されており、全長は容易に算出できません。気候は、全域に渡って乾燥していることは共通ですが、東部から西に行くにつれて亜寒帯気候、ステップ気候、砂漠気候、と移り変わり、一日の気温差、年間の気温差とも大きくなるのです。

万里の長城をゆく

万里の長城は、紀元前7世紀に北方民族の侵入に備えて造られた城壁を、紀元前3世紀に秦の始皇帝がつなぎ合わせたものであり、その長さは6,000kmにも及びます。ただ、現在の万里の長城の殆どは明の時代に改築されたものといわれています。万里の長城はほぼ山の尾根に沿って建造されており、起伏が非常に激しく、平らな箇所もあれば、勾配の急な階段もあります。
遠くから見ると長城の城壁の上を歩くのは簡単であるように思えます。確かに簡単に楽に歩けるところも多いですが、急勾配の階段が問題になります。階段が急勾配であることに加え、万里の長城は、その段差がまちまちであり、これが歩行のリズムを崩します。その上、階段の縁がすり減って丸くなっており、滑りやすいことこのうえありません。万里の長城の階段を下りるとき、下を見ればあたかも崖の上に立ったような感じの場所が少なからずあります。ここで滑って転べば勾配のないところまで転がり落ちることは間違いありません。なんの支えもなく降りられる人は少なく、殆どの人は城壁両側に付けられた手すりにつかまり、ソロソロと降りています。
ガイドブックには、せいぜい「万里の長城はヒールの高い靴で登るのは無理」程度にしか書かれていませんが、そんな生ぬるい表現はピッタリきません。加えて、万里の長城には、一人か、せいぜい二人の列を作る以外通れないような狭いところも所々にあります。
急な勾配、段差の揃っていない階段、極めて狭い通路、これらは全て外敵の侵入を容易にさせないための手段と思われ、よく考えて造られているといえます。万里の長城はそのスケールの大きさを体験する意味から、一度は訪れてみる価値はあるが、二度以上はあえて訪れる気持ちにならない観光スポットだといえるでしょう。
現在、中華人民共和国政府は万里の長城を重要な歴史的文化財として保護し、世界遺産にも登録されています。万里の長城は世界有数の観光名所としても名高いですが、地元住民が家の材料にしたり観光客へ販売したりなどで長城のレンガを持ち去り、破壊が進んでいます。また、万里の長城がダム工事により一部沈んだりもしています。万里の長城周辺の甘粛省や陝西省は中華人民共和国でもっとも貧しい地域の一つで、当局は対策に頭を悩ませています。
2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告がされました。

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